公園通り雑記帳

インクルーシブ教育プレ集会in札幌に参加して考えたこと

   

 8月30日に札幌弁護士会主催の「インクルーシブ教育」についてのシンポジウムが開催されましたので、聴講してきました。
 「インクルーシブ教育」とは、日本国内においては、一般的に、「障がいのある子どもたちと障がいのない子どもたちの就学の場を“分離しない”教育システム」を意味します。
上記のインクルーシブ教育と対比される概念が、現在、日本で主流を占める「分離教育(障がいのある子どもたちと障がいのない子どもたちの就学の場を“分離する”教育システム)」です。
 シンポジウム当日は、インクルーシブ教育の第一線で活躍されている東京大学大学院教授による基調講演と、旭川市の中学校でインクルーシブ教育を実践した教室の担任の先生や若者(元生徒)たちによるパネルディスカッションが行われました。とても考えさせられる内容でした。
 私自身、小学校の頃から徹底的な分離教育を受けてきました。恥ずかしながら、今までそのことに疑問を持ったことはありませんでした。それが「当たり前」だと思っていました。
 一方、登壇者の若者は、幼稚園のときには一緒にいた友達が、小学校に入ってからは支援学級に入ったことで、一緒に過ごす時間が少なくなり「どうして(その友達が)一緒にいないのか?」と疑問を持ったとのことです。
 幼稚園の頃から、インクルーシブな環境で育った登壇者にとっては、障がいのある友達と一緒の学校生活を送ることが「当たり前」だったからです。
 子供の頃から徹底した分離教育を受ければ、障がいのある人と分断された生活をすることが「当たり前」になりますし、分離しない教育(インクルーシブ教育)を受ければ障がいのある人が身近にいることが「当たり前」となります。このように分離教育を受けてきた私と、インクルーシブな環境で育った登壇者の「当たり前」は180度異なるものとなっています。
 世の中には、「当たり前」とされていることがたくさんあります。
しかしながら、「当たり前」というのはその人ごとに異なる相対的なものであり、その人ごとにその人が「当たり前」と思い込んでいる「個人の感想」があるに過ぎないということに気付かされました。
 小学校・中学校と幼い頃から徹底した分離教育を受けてきた人たちが、お互いを分けて考えるのが「当たり前」になってしまうのは、教育の結果として当然のことなのかもしれません。
 しかし、障がいのある人も、学校教育期間が終わったら、学校と言う「障がいのある人と障害のない人を分離する世界」から突然放り出され、障がいのある人も障がいのない人も一緒くたの世界に放り込まれます。今までずっと分離されてきた障がいのある人と障がいのない人はそこではじめてファーストコンタクトをすることになってしまいます。
 私が日常生活で目にする限り、幼少期からの分離教育は障がいのある人にとっても障がいのない人にとっても寒々しいファーストコンタクトを作出してしまっていると思います。
 最初からインクルーシブな環境であれば、ファーストコンタクトもその後の関係性ももっと温かみのあるものになるのではないでしょうか。
 インクルーシブ教育については様々な議論があると思いますが、私には、日本が長年行ってきた徹底的な分離教育が、障がいのある人と障がいのない人は関わらないのが「当たり前」という誤謬を助長し続けていることは明らかなように思えます。
 今回のシンポジウムに参加したことで、分離教育が重大な人権問題だということがはっきりと認識させられました。

K.T

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浜松町

   

東京への出張や旅行の際に、羽田空港からモノレールそ利用して目的地に向かうことが多いですよね。モノレールの起終点の浜松町はその意味で通過地点としての印象が強いです。でも現在。JR浜松町駅に隣接して、オフィスやホテル、商業施設等で構成される超高層の世界貿易センタービルディングが建設中で、完成すれば巨大な都市空間ができるようです。他方、駅を出て西側に行くと、増上寺の門(大門)があり、その周辺は門前町としてできた芝大門という地名の地域になります。先日、たまたま東京出張で大門近くのホテルに泊まりましたが、昔からの飲食店や商店街が残っていて、人情味を感じました。「新亜飯店」という小籠包で有名な中華料理店があり、以前は東京に行った際に何度か小籠包を食べに行っていました。今は繁盛して予約をしなければとても入れないようでした。今度、時間を余裕のある時に周辺の散策も含めて、この町を深堀してみたいと思いました。(O)

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